鈴鹿連峰の一峰、綿向山(わたむきやま)に見守られた滋賀県蒲生郡日野町。知る人ぞ知るこの町には今でも江戸時代に栄えた城下町の面影が残り、慎み深い近江日野商人の故郷らしく、人々は厳かにひっそりと独自の歴史と文化を守り継いでいる。そんな日野の一角に、「この宿に泊まりたい!」と国内外から多くのゲストが訪れる、一棟貸しの民泊&カフェがある。築120年の古民家をリノベーションし、2019年にオープンした「綿向山ビレッジ キッチン&ゲストハウス」。古民家ならではの趣溢れる空間に心はふわりと和み、何よりオーナーの佐脇章三さん&良子さんご夫妻の人柄や温かいホスピタリティが忘れられないという声も多く寄せられる。そんな佐脇ご夫妻が営む宿の魅力を感じに、滋賀県の「綿向山ビレッジ」を訪れた。
由緒ある歴史とともに、850年続くお祭りや伝統を継承する奥深い文化に彩られ、町には昔ながらの立派な商家や蔵屋敷が立ち並ぶ。人々の営みを支える自然も豊かなままに、恵みの雨が大地を潤した後には大きな虹が架かり、灯りの少ない夜は満天の星空、初夏の田んぼ道を歩けばホタルが乱舞する幻想的な光に包まれる。この町ならではの風情も人も自然美も、その魅力に触れれば触れるほど何度でも足を運びたくなってくる。他でもない佐脇さんご夫妻も、宿をオープンする1年前に初めて日野を訪れたときからこの町に魅了され、足繁く通うようになった。ご主人の章三さんはそれまで40年近く音楽業界で活躍し、滋賀県大津市に22年間暮らしながら毎週のように大阪や東京へと飛び回る多忙な日々。HIPLAND MUSICの創立に関わり、2018年に退職するまではSweet Boon Music inc.の代表取締役として、アコースティック・ギターデュオで知られるゴンチチをはじめ、EGO-WRAPPIN’、羽毛田丈史らのマネージメントを手掛けていた。敏腕音楽プロデューサーからAirbnbスーパーホストへ、まったく異なるジャンルへの転身は劇的のようにも思えるけれど、日野に通う中で繋がっていった数々のご縁から、流れるように導かれていったという。
「定年退職後に趣味として、京都で蕎麦打ちやベジタリアンの料理教室に通っていたんですが、そこで口にしたディンケルというヨーロッパ原産の古代小麦で作るスコーンがとても美味しくて。日本で初めてディンケルを栽培・販売したのが日野町だと知り、2018年に初めて日野を訪れたんです。最初はディンケルを求めてここに来たんですが、僕は古物商ライセンスを取得したほど骨董好きで、築100~200年にもなる古民家が並ぶ日野の町並み、とくに蔵の魅力に引き込まれてしまったんです。それから日野で蔵のある古民家物件を探し始めて、町の骨董屋さんにも通い詰めるうちにご主人と親しくなって、この物件を譲り受けるご縁も骨董店のご主人が繋いでくださったんです。最初は宿を始める予定はなかったんですが、せっかくならここで何かしたいと思ったとき、旅好きな僕らが毎年通っていたハワイ島ヒロタウンのB&B(ベッド&ブレックファースト)がまっさきに浮かんだんです。ベッドと朝ごはんというシンプルさ、オーナーのニック加藤さんもすごく温かい方で、彼が営むB&Bに泊まって過ごす心地よさが、僕らの中にずっと残っていて。それが、この宿を始めようと思った原点なんです」(章三さん)
ハワイ島のB&Bのように、旅人が心置きなく寛げるカジュアルな宿と、合わせて地元の人も気軽に集えるカフェを作ろうと、2019年8月に「綿向山ビレッジ」をオープン。築120年という古民家の趣を最大限に活かしたリフォームは、地元に暮らす腕のいい大工さんが快く引き受けてくれたそうで、章三さんと大工さんと2人で、「懐かしくて新しいネオモダン」をコンセプトに細かなこだわりを詰め込んだ。
「調度品の家具も、大正から昭和初期に作られた飛騨産業のカリモク家具で揃えていて、すべて中古で集めてきたものです。独特のモダンさが気に入っていて、形も一つ一つ違い、同じものはないんです」と、章三さんが紹介してくれるものはどれも、アンティークの目利きならではのセレクトが光る。
「蔵サイト」の隣りに建つ離れに案内されると、滋賀県でも指折りの職人に頼んで作ってもらったという、直径120cm×深さ56cmもの大きな信楽焼のお風呂に思わず驚嘆。Airbnbリスティングでも、このお風呂に惹かれて予約を入れるゲストが多いというのもうなずける。
「親子3代で泊まれる宿をコンセプトに、そこでは『おじいちゃんが孫2人と一緒にお風呂に入る』というストーリーもイメージして、わざわざ浴槽をこの大きさにしてもらったんです。嬉しいことにこのお風呂が大好評で、大人はもちろん、子供たちも大喜びなのが嬉しいですね」(章三さん)
ディナーや朝食も評判がよく、京都で料理の腕前を磨いた章三さんのこだわりもプロフェッショナル。「一から取った京出汁をいろいろな料理に使うんですが、ディナーに揚げ出し豆腐の京出汁あんかけをお出しして、そこでお客さんの胃袋を掴むんです!」とにこやかに笑う良子さん。アラカルトメニューも10種類以上のスパイスを調合した「綿向山牛すじカレー」や、日野町産の蔵尾ポークを使った「豚天丼葱あんかけ」など、地元食材を活かして手間ひまかけたメニューが並ぶ。2020年には滋賀県知事の三日月大造氏も3泊4日で宿泊され、朝食でお出しするミネストローネの美味しさに感動した知事から「レシピを教えてほしい」と言われたほど、美食のおもてなしも折り紙付きだ。
「滋賀県知事が来てくださったのは感激ですごく勇気をもらいましたし、宿を始めたおかげで思いも寄らない出会いや変化球がいっぱいで楽しいですよ(笑)。日野の方たちもここに泊まって女子会を開き、夜遅くまで食事とお酒を楽しみながら好きな時間にお風呂に入って、朝ごはんを食べて、皆さん元気よくご自宅に帰っていかれます。旅行で来られる方も、宿に来るまでは家族で喧嘩をしていたとしても、ここ来たら時間を忘れて和気藹々と楽しんでもらえたら何よりですし、私たちもその姿を見てパワーをもらえるので、皆さんがニコニコしながら寛いでもらえるように、という思いでいつもお迎えしています」(良子さん)
いつも明るく仲睦まじいお2人の歓迎もゲストの心を潤し、レビューには「一番の魅力はオーナーご夫婦! お2人にまた会いに行きたい!」「周辺の歴史や観光についてもたくさん教えていただき、初めて来たのにすっかり日野が大好きになりました!」など、心温まるコメントも数多く並ぶ。聞けば日野のことを何も知らずに来るゲストがほとんどだそうで、お2人は日野の観光スポットや地元の名店など、積極的にこの町の魅力を紹介し、ゲストも日野散策を存分に楽しんで帰るそう。
「日野は素晴らしいお祭りや年間行事も盛りだくさんなんです。宿から程近い綿向神社などで毎年5月に行われる『日野祭』は、850年も続く湖東エリア最大の春祭で、滋賀県内最多を誇る16基の曳山も本当に壮観です。春の『日野ひなまつり紀行』や、夏の『火ふり祭り』などもぜひ見てほしいですし、夕焼けや虹、星空やホタルといった自然も本当に美しい。宿から見える綿向山も四季ごとに表情が違って、とくに冬は霧氷の絶景が素晴らしいんですよ」(章三さん)
日野には「売り手よし・買い手よし・世間よし」で有名な、近江日野商人ならではの「三方よし」の精神が、今でも町の気風としてしっかりと根づいている。お2人もそんな歴史ある精神性を大切に、自分たちもゲストも笑顔で過ごせる宿を、同時に日野町の地域活性にも貢献しながら、ホスティングを心から楽しんでいる。
「宿でのおもてなしと合わせて、僕らが出店する町のイベントやマルシェにもゲストをお誘いしたり、ときどき早朝からお客さんを連れてお寺に行って、尼さんと一緒に朝座禅を組んだりもするんです。座禅が終わって目を開けると視界いっぱいに朝焼けが広がっていて、これが言葉にできないほど感動的なんですよ! 座禅後の清々しい気分とともに素敵な1日が始まる……こうした日野ならではの体験も、皆さんにすごく喜ばれるんです。僕らの中には、『お客さんのワクワクドキドキをプロデュースしたい』という思いがいつもあるんです。今思えば、音楽プロデューサーとして多くの人に良い音楽を届けてコンサートやCDを楽しんでもらうことと、今の宿泊業とは、おもてなしの感覚や感性が似ているなと感じるんです。40年間の音楽人生の延長線上に、今も『どうしたらお客さんに喜んでもらえるかな?』を常に考えていて。皆さんからたくさん嬉しいレビューをいただけるのも、僕らのその思いが皆さんに伝わっているからかなと、すごくありがたくて励みになりますね」(章三さん)
いつかは蔵にレコーディングスタジオも併設して、国内外のアーティストも古民家に泊まりながら音楽製作ができる場所を作りたいと、瞳を輝かせる章三さん。佐脇さんご夫妻とゲストたちが奏でるこの宿の物語は、まだまだ夢の途中。近い将来にはきっと、ますますジャンルを超えた幅広いゲストたちが、思い思いに心躍る蔵ステイを楽しんでいるにちがいない。